神谷次郎氏の「充実した人生」

この記事は神谷次郎氏のすばらしい人生における重要な出来事についてJCCA月報のために書かれたものです。神谷氏は奥様と日系ホームの設立された2002年から入居されていましたが、残念なことにこの記事の執筆中の3月上旬に105才で永眠されました。

この記事は、筆者が行った神谷氏とのインタビュー、そして日系ホームのスタッフおよびご子息フランク氏より寄せられた文書に基づいています。神谷氏は日系シニアズのモットーである「健康で長生き」を真に体現された方で、自らの信念に忠実な人生を歩んだ方でした。困難に前向きに挑み、それを乗り越える力を持っており、物事に対して常に目標を高く持ち、そしてご自身の残した業績を誇りに思っていました。また、神谷氏は他人への深い思いやりに溢れる、とても寛大な人物でもありました。

神谷氏は1910年、静岡県の小鹿で生まれ、23歳までその地で暮らしました。父方の家族が代々大工だったことから、神谷氏は生まれもっての大工だったと言えるでしょう。わずか15才の頃に修行を始め、父親の営む教会・学校・政府関係のビルを建設する大きな会社を手伝いながらすばらしい大工として成長。8年間その会社で見習いとして働き腕を磨き、棟梁となりました。

1933年、神谷氏は自らの力を新世界で試すためにカナダへ移住しました。お姉さんが既にBC州ピットメドウズで暮らしていたため、その家族が経営する農場を手伝いながらそこで生活を始めました。

この頃はカナダに移住するためには最低3年間カナダを離れないという契約を結ぶため、3年後の1936年に日本へ帰国、奥様のトネコさんと結婚され、翌1937年に新婦とともにカナダへ戻ってきました。ハモンド・シーダー製材所で仕事に就き、終業後と週末にはお姉さん家族の農場を奥様と無償で手伝いました。また、農場近くの土地に自分の家を建て、そこで家族と4年間暮らしました。1938 年と1939年に長男と次男が生まれ、三男は強制収容時の1946年にマニトバ州で生まれました。

1941年に神谷氏は10エーカーの農場を購入し、その土地に三部屋の寝室がある家を建てました。しかしその家が完成したばかりの第二次世界大戦が始まる頃、家そして所有物のほとんどを後にしなければなりませんでした。BC州の沿岸部から内陸の強制収容所または別の州に移住させられたその他二万一千人の日系人同様、それらは翌年政府によって合計わずか$800で売却されました。

この時、神谷氏は幼い子のいる家族を離ればなれにしないためにマニトバ州のオークブラフに移住し、シュガービート(砂糖大根)農場で働くことを選択しました。ただ実際には神谷氏の大工としての腕が評価され、農場を経営する会社に大工として雇われ、共同のキッチンとリビング、そして各8フィートx8フィートの寝室四部屋が付いた16フィートx 24 フィートの家を建てました。これらの建物には断熱材が使用されておらず、2〜3家族が一緒に暮らしました。

シュガービートの時期は比較的短いため、神谷氏は近隣で個人的に大工仕事を請け負う許可をもらい、友人の山田氏とそれぞれ3〜4人が所属する作業員のグループを二組組織しました。やがて地域でその優れた腕前が知られるようになり、何ヶ月も先まで仕事のスケジュールが埋まるようになりました。約一年後に中古の車を購入することができ、シュガービート畑や周辺の町に大工仕事をするために移動できるようになりました。その後シュガービート会社から建材を提供してもらい自らの16フィートx 16フィートの家を建てました。

 

5年ほど経って神谷氏と家族はフォートギャリーへ引越し16フィートx 24フィートの家を建て、移住してから暮らしていた共同の住居よりいい家での生活が始まりました。神谷氏は奥様とフォートギャリーのシュガービート農場で契約作業員として働きながら、大工仕事を続けました。

ある冬、氷点下20度の凍えるような寒さのセルカークで窓の設置作業中に風邪をひき、結果二度耳の手術を受け、腎障害のため4ヶ月におよぶ入院生活を余儀なくされました。退院後も二ヶ月は安静にすることを勧められましたが、退院その日に息子さんが腕を折ってしまいパジャマ姿のままウィニペグまで運転し医者へ行きました。

1947年、健康を取り戻した神谷氏はBC州に戻る許可を申請。翌年1948年に一家はカムループスへ引っ越し、お姉さんの農場で暮らしながら神谷氏は市外に家を建てる建設会社に季節労働者として仕事を見つけました。

1949年頃、一年を通して働ける環境を求めて神谷氏は家族とともに西海岸に戻りました。造船に関しては全く経験がありませんでしたが、松本造船所で木製の漁船を作る仕事に就きました。仕上げの技術の素晴らしさから、やがて船室の内装の仕上げすべてを監督するようになり、その会社で9年間船を作る仕事に従事しました。私事で恐縮ですが、筆者の父ジョー・寺西は神谷氏と造船所での仕事を通じて出会いました。50年代の初め、神谷氏は時折週末にスティーブストンに足を伸ばし、筆者の父が家を建てるのを手伝ってくれました。

松本造船所で働いた後、神谷氏は大きな建設会社に務めるために初めて組合に加入し、設計や建設準備から専門である仕上げまで建設のあらゆる分野に携わりました。サイモンフレーザー大学、キャピラノカレッジ、ギネスタワーを含むたくさんの巨大プロジェクトに関わり、バンクーバーのロイヤルセンターを最後に1976年頃に退職しました。第一線から退いても、神谷氏は友人や親戚のために家の建築などを続けました。80年代にはメインアイランドに甥御さんの家を建てるのを手伝い、自身の夏の別荘を家族や甥御さんの手を借りて1988年に完成させました。

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退職後は菊作り、盆栽、ガーデニング、5ピンボウリング、釣りや旅行などの趣味を楽しむ時間ができました。前述のとおり神谷氏と奥様は2002年、奥様の体調が芳しくなく介護が必要となったため介護付きホームに移り住み、最初の日系ホームの入居者となりました。2004年に奥様が永眠されるまで神谷氏はホームのスタッフの手を借りながら、すばらしいケアをされました。ホームではレクリエーションや交流アクティビティに参加しながら、若い頃から磨いた大工の腕を振るい、ホームに持ってきた道具を使い、堅材から箸を作ったりしました。99歳になるまでに千膳以上の箸を作成し、日系ホームのスタッフ、ナショナル日系博物館、隣組、また99歳、100歳の誕生日に出席した方々にプレゼントされました。日系ホームで神谷氏はいつもアクティブで、可能な限り自立していることを望んでいました。エクササイズに参加し、Wiiのコンピューターボウリングを楽しみ、シングルおよびダブルスの試合で何度もチャンピオントロフィーを獲得しました。入居当初はガーデニングを、数年前まではカラオケも楽しんでいました。

スタッフによりますと、神谷氏は誰にでも好かれ、スタッフ、ボランティアの方々、そして日系ホームの他の住人と良い関係を築いていました。世話をしてくれる人たちにいつも感謝と敬意を払っていました。一人のスタッフは、温かい笑顔で日本からの来客やホームを見学に来た方々にあいさつしていた神谷氏はまるで「日系ホームの大使」だったと述べています。神谷氏はしばしば日系ホームの見学者のために、代表的な介護付きの部屋の例として自分の部屋を解放していました。

神谷氏は、カナダに移住した初期の日本人の中で最も長生きをした日系一世の一人として「遺産」を残しました。以上に神谷次郎氏の長く豊かな人生をかいつまんで紹介しました。

執筆:トム・寺西

翻訳:小池ともこ

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